夢を追い、叶え、破れた後、今がある。
光太郎さんは本当にたくさんの経歴があって、どこからお話を伺うか悩ましいのですが。バンドマンとして活動されていたということで、昔から音楽業界で働くことが夢だったんですか?
バンドは学生の頃からやっていて、漠然と「どうしたらミュージシャンを続けられるか」と考えてました。でも、当時はレコード会社やレーベルとか、音楽業界の会社で働くという発想はなかったですね。
そうだったんですね。
大学卒業後は就職して働きながら、音楽活動も続けていたんですか?
はい。ただ、ミュージシャンとしてお金を稼いで暮らせるほどのスキルはなかったので、会計機のメーカーに就職しました。でも、仕事が全然面白くないうえに、すごく忙しくて。次第にバンド活動とのバランスも取れなくなって、結局辞めてしまいました。
当時は仕事に対して「音楽を続けるための手段」という意識が強かったんですね。
はい。音楽は続けたかったので、そのためにも仕事に就かなきゃと思って。大学では福祉の勉強をしていたので、地元の横浜市で団体職員として地域福祉に関わる仕事に就きました。
具体的にはどんなお仕事だったんですか?
子育て支援や高齢者支援といった、地域の福祉的な課題を解決するための事業企画などに取り組んでいました。色んな人と出会い、人と人をつなぐコーディネーターの仕事をしていたんですが、それが楽しくて5年ほど勤めました。
そこから一転、今度は有名な楽器メーカーに就職することになったそうで。
そうなんです。友人のミュージシャンが推薦してくれたのが大きいです。あとはそのミュージシャンと楽器メーカーの人とよく飲んでいたんですが、その席で、「うちに来ない?」と声をかけてもらい、こういう形での音楽との関わりもいいなと思ったんです。その場で「お願いします」と返事をして、後日、ちゃんと採用試験を受けて入社することになりました。
音楽業界でのお仕事は、どうでしたか?
主には「VIPセールス/アーティストリレーション」と言って、VIP顧客やスタジオへの機材の販売やアーティストへの楽器提供とか、アーティストの窓口的な業務をしていました。もともとバンド時代のネットワークが、音楽関係の様々な方々へと広がりましたね。バンドを組んでいた頃から、「気の合うミュージシャン仲間たちと仕事をしていけたらいいなぁ」と思っていたことが、まさか本当にそんな日が来るとは想像もしていませんでしたけれど。でも、4年ほど勤めたある日、所属していた部署がなくなることが決まり、会社を辞めることになったんです。
せっかく音楽に関わる仕事に就いたと思ったら、そんなことが…。
それからはフリーランスでお仕事をするようになったんですか?
いや、当時はもうニートでしたね(笑)。無職で1ヶ月くらい家にいました。そんな時にまた別の知り合いが声をかけてくれて。東京の大田区に池上というエリアがあって、そのまちづくりプロジェクトを手伝ってほしいと言われたんです。それでプロジェクトの中心となるカフェで店長を務めることになりました。そこでも色んな企画に携わって、コーディネーター的な役割も担って、だんだん「自分はこういう仕事が好きなんだ」ってわかってきたんです。最近は川崎市の等々力緑地や大師公園のイベントの制作や運営にも関わらせていただいてます。こういう地域のイベントにも、自分のやれることで今後関わっていきたいです。
バンドマンから始まって、団体職員、楽器メーカー、カフェの店長と様々な経験を経て、ついに今に至るんですね。現在はどんなお仕事をされているんですか?
「天野企画」という屋号で、音楽アーティストのキャスティングを行ってます。例えば、CMやキャンペーン、イベントなどに関わる音楽コンテンツが必要になった際に、企業とアーティストをつなぐ仕事です。最近だとドラマの主題歌をアーティストに描き下ろしてもらいました。
あと、ここ2年はBリーグ所属のプロバスケットチームでホームゲームの企画と運営の仕事もしています。
好きな「音楽」と、たくさんの経験の中で感じた「人と人をつなぐ楽しさ」をかけ合わせた、光太郎さんらしいお仕事ですね!
「思い通りに進まない」が当たり前。
光太郎さんにはたくさんのターニングポイントがあったと思います。将来のことや仕事についてお父さまは相談など受けられましたか?
まったくされたことがないんですよ。私自身は40年くらいずっと美術館のキュレーターをしているので、音楽のことは詳しくないんです。だから、相談をされても「あれをやれ」「これはやめろ」なんて偉そうなこと言えなかったと思いますけどね。
父に言われたことで一つ覚えてることがあって。学生の頃、就活のイベントから帰って来た時に、「やりたくもない仕事には就くなよ」って言われたんです。
うーん、覚えてないなぁ……。
でもね、それは理由なき話ではなくて。きっとルイーズ・ブルジョワ※というアーティストに聞いた話を、私なりに伝えたんだと思います。以前、彼女の展覧会を企画した際に、彼女が自分の息子に言ったという言葉を拝借しただけなんですよ。
(注釈)
※フランス系アメリカ人のアーティスト。東京「六本木ヒルズ」の巨大なクモの彫刻『ママン』などを手掛ける
太郎さんのその言葉が、光太郎さんの中に残っていたということですね。
そうですかね(笑)。ただ、「音楽が好きなのに、なんでわざわざ違う道に進むんだ」と言われて、ずっとモヤモヤしていたんです。だから最初の就職先が自分に合わないと思った時、スパッと辞められたのかもしれません。
コーディネーターとキュレーター、どちらも人をつなぐ共通点があると思います。お二人は今のお仕事のどんなところに魅力を感じているのでしょうか?
アーティストをつなげて展覧会を開く。そんな仕事を40年やってきましたが、いまだに最終的にどんなものができあがるのかわからないんですよ。「この人たちをつなげたら面白いことが起きそう」という予感はあるんですが、いつも想像を超えるものがアウトプットされるんです。予測がつかない、わからないのが面白い。私はキュレーターのそんなところに魅力を感じていて、だからこの仕事がやめられないんです。
僕も同じですよ。何が出てくるかわからないワクワク感があるんです。例えばさっき話したドラマの主題歌も、「この楽器を使って、こんな曲調で、こんな歌詞で」ってアーティストに依頼することもできるんです。でも、それってアーティストの可能性を潰してしまっている気がして。だから大枠だけ伝えて曲を作ってもらうことで、アーティストの魅力が発揮できる余白を残すんです。すると思いもよらなかったものができあがってきたりする。それが、企画と人をつないだり、人と人をつなぐことの面白さですね。
美術と音楽で分野は違いますが、お二人で一緒に何かやろうということはないんですか?
ないですね。
お二人声がそろいましたね(笑)
でも最近、音楽も美術も、いよいよボーダーがなくなってきたなと感じます。「イースト・イースト トウキョウ2023」というアートフェアはすごく印象的でした。アートフェアというと、これまでは「お金持ちの人たちがアート作品を買いに来る場所」というイメージだったんです。でも、そこには若くてファッショナブルな人たちがたくさん来ていた。いわゆるZ世代の若者で、音楽をバックグラウンドに持っている人が多かったんです。あれは本当に新鮮でした。
彼らはきっと「音楽」とか「美術」とか、ジャンルを気にしていないんです。自分たちがかっこいいと思うカルチャーを純粋に取り入れているだけ。僕の周りにもそういう人たちがたくさんいます。だから僕らからしたら変化というより、やっとそういう風潮が表に出てきたんだな、という感じです
光太郎さん自身も様々な岐路に立った際、「こっちの方がかっこいいし、面白そう」みたいな選択をしてきたんでしょうか?
それはあると思います。色んな仕事をしてきたけど、その都度「面白いだろうな」を選んだり、「何をするかより、誰と何をするか」を大事にしてきたように思います。そういう人たちにずっとついていく、を軸に選び続けたらここにたどり着いたという感じですね。多分、父の影響もあると思います。子どもの頃から、いつも楽しそうに仕事をしているなと羨ましく感じていました。だからか、好きなことを楽しく仕事にする、仕事をしたいと思える人と仕事をしていきたい。その方が人生楽しいなって。それが大人になってからの答え合わせになっていると感じています。
キュレーター一筋でこられた太郎さんは、そんな光太郎さんをどのように思ってたんでしょうか?
やっぱり家族なので、つまらなそうな顔をされるのは嫌ですよね。だから「面白そうなことやれているなら、それでいいんじゃないかな」と思っていました。私も40年いろんなアーティストと付き合ってみて面白いと思ったのは、作品を作る時、誰一人として「最初の構想に沿ってまっしぐら!」という人はいないんです。日々考え方も変わるし、うまく作れなければ作り方もアレコレ変えます。展覧会だって当初の企画通り開催されることはほとんどないんです。「コロコロ考えを変えるな」なんて言う人がいますけど、私は変わったっていい、それが普通じゃないかなと思います。
ああ、その感覚すっごくわかるわ。
どんな仕事も、思い通りにいかないことの方が多いじゃないですか。だからそういう前提で物事を考えたり行動しないと、「どうしてうまくいかないんだ」ってドツボにはまってしまう。できないのが当たり前で、いつか「ぐるぐる巡っていたら何かの拍子にできるようになった」っていうくらいでいいんですよ。
就職活動していた時、先輩社会人が自身の経験を「しっかり目標を立てて、計画通りにこなして、今の自分になるべくしてなった」みたいに話すんです。でもそんなわけないだろって、違和感を感じていました。
だから今、僕も先輩社会人として学生に話す機会があれば、だいたい「今まで聞いてきた大人の言うことは信じなくていいよ」って話してます(笑)。
多分、父の仕事の関係で子どもの頃から面白いと思えるたくさんのアーティストを目の当たりにして、知らず知らずのうちに影響を受けていたように思います。
「できないことが当たり前」という考え方は、新しいことに挑戦しようとする時には特に心が軽くなる気がしますね!光太郎さんは現在クライアントのあるお仕事をされていて、自分の思うようにできないこともあると思います。そういう時にどう折り合いをつけているんですか?
はじめからそういうものだと思ってます(笑)。自分の思った通りにいかなくて嫌だなというより、じゃあ、そんな中でどう面白くしようかって考える方が楽しいじゃないですか。そもそも自分自身がむちゃくちゃ不器用なタイプなので。
なるほど!それはすごく前向きでステキな考え方ですね!
では最後に、お二人から新しいことにチャレンジする若者たちへ
メッセージをお願いします。
私は60年以上生きてきて、今が一番社会の変化を感じます。日本は人口も公的資金も右肩下がり。高度経済成長期やバブル時代を生きてきた私たち世代にとっては初めての経験です。でも若者たちにとっては、この状況が当たり前なんですよね。そういう前提に立った時に生まれる価値観や、ライフスタイル、新しいアイデアを、ぜひ教えてほしい。それがこれからの時代を悲観せず、楽しむ力になると思っています。
さっき考えがコロコロ変わってもいいって話をしましたけど、人に流されてるだけじゃだめだと思うんです。どこかで自分で判断しなきゃいけなくて、そこで基準になる考えを持っておかないといけない。僕の場合はそれが「面白そうなことをひたすら選ぶ」ということだった。なんとなく就職して、働いて、定年になって、ふと気づいたら何もない人生になってしまわないように、柔軟でありつつも自分の想いを大切にすることが、未来につながるんじゃないかと思っています。